2024/10/28 22:42
石のパワーとか効能とかいうものはいつくらいから言われるようになったのだろう。
さまざまな古代の遺物に石が嵌められていた頃は純粋に、その石の美しさに依るところだけのような気もするけれど、そもそも「美しさ」に向けられる人の感性は「見えている以上の何かがある」というようなことを読み取るように出来ている気もする。「見えない何かが石となって顕在化している。この美しいものが存在する意味がたしかにある。」と思いたくなる、とでもいうか。そうして世の中にはそうしたことを「より観える(感じられる)人」がいてその意味が普遍化していった、と言うあたりが「石の効能」ということだろうか…とエビデンスなどは全く無視でつらつら思ってみる。
私の妹はいわゆる「観える人」で「聴ける人」でもあるのだけれどその意味が全部わかって観えたり聴けたりしているわけではないので、後になって「あー!こういうこと!」ということがよくある。
私たちの母はアルツハイマーに由来する脳疾患によって多臓器不全で68歳でこの世を去ったのだけど、昏睡状態となってもうできることはなにもない看取りの時間に入ったベッドに横たわる母の身体からは、細かい金色の泡がシャンパンのように立ち昇っていて、母自身は肉体から延びる1本の紐に繋がれて身体の上をその天井も突き抜けて風船のようにフワフワ浮いている、ということだった。
肉体の終わりと魂の終わりにはタイムラグがあって魂はその「次へ行く時間=迎えが来る時間」までは私たちと世を一(いつ)にしている。母は2011年の12月の末に亡くなったのだけれどその前後の時間には私たちと一緒にいて、こうなると思わずに予定していた和食屋さんでの鍋クリスマス会にも、身体は病室にあったけれど一緒に参加してお酒も飲んだし、時々いなくなっては最後のほとんどの時間を私たちと過ごしていた。
ほどなくして母の肉体が生命活動を停止し、ナースによって素晴らしいエンゼルケアが施され葬儀場の一室に運ばれ、やがてお坊様がお見えになって儀式の設えが進んでいった。母の胸元辺りに短刀を置いてお坊様がお通夜の準備を終えたのを見て、妹と「あんなふうにするんだね。」と大人になって初めての遠慮しなくていい肉親を送る儀式を珍しく眺めまわしていた。そしてそこには母もいて、いざ読経が始まると泣く母の姉である叔母の横に座って神妙な顔をしているから「(お母さんはあっち!あっち側!)」と妹がパクパク言っているのを見て必死で笑いを堪えたり、儀式を進めるお坊様の所作を興味深く見ていた。
お通夜もいよいよ終盤に差し掛かった頃、お坊様が読経しながら母の身体の上に置かれた短刀を手に取った。妹と「あ、あれ使うんだ。」と目線を交わしたその時、短刀を鞘から抜き横たわる母のお腹の上でサッと横に振り切る所作をしたのだ。
私と妹はハッと息をのんで見つめあった。母の身体と魂を繋げていた紐が切られる瞬間を私たちは見た。これがお通夜なのか。夜を通してこの世と別れることを魂に知らせ、もう逝っていいんだと解放を伝える儀式。
実際には母はその後の焼き場にもいて自分の身体が炉に入るのを私たちと一緒に見ていたし、骨を拾う時にも一緒にいた。けれどこの儀式を通して、この儀式を作った人は確かに「観えて」いて、それを観えない私たちに可視化して理解を促すためにこの儀式を作ったのだと合点した。儀式に組み込まれているターミナルケア。
観えないものを具現化することで整えられ受け入れやすくする。様式は美しくあることで神聖さを纏いそれをもたらされたものに精神的な影響を与える。石の美しさに意味づけられ見いだされているものも多分これによく似たもので、だからこそ人はそれをお守りのように持ちたいのかもしれない。そして石の謂(いわ)れの最初も、確かに誰かが感じた波動でそれを意味付けして具現化したものが今私たちが「パワー」と呼ぶものなのかもしれない。
あまりにも金運金運と言われるので結構使いにくいダイガーアイ。でもそのベルベットのような美しさは比類なく、ならばいっそのことその金運的なものがぶち上がるようなものを玉屋物として作ってやれと、とっておきのゴールドルチルクォーツも合わせて玉屋えゐち的金運アクセサリーを作ってみました。
どこかの誰かがこの石に確かに感じた金運の波動か、それとも平賀源内のうなぎ的流行廃りのプロモーションか…
皆さんの感じる波動でひとつ。